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2011. 7. 10

第124(日)自己冷却機能は備わっている

アンマでも、鍼でも、オステオパシーでも、おおよそ一回1時間ぐらいで、4000円というところ、このヨガ講習会は朝9時から夕方56時を過ぎるまで丸一日で4000円。心身のメンテナンス、もしくは治療としてどれがいいとは一概に言えないが、もし時間と最低限の体力があるのならば、投資効果としては、これは最良かもしれない。他人、もしくは、外界(薬やサプリを含めて)から受ける治療というのは、自らは楽チンであり、それがむしろ必要な側面もあるかもしれない。しかし慢性的なものに対しては、それだけが頼みだと、改善というよりも堂々めぐりという側面もある。自らの身体に対して、自らが原因と結果を意識し、自らで日常的にリカバーできる、という意味でヨガは最も根本的で安価な治療、もしくは予防医学的方法論であるかもしれない。
今日は、実にタイムリーな話が、目から鱗であった。ヨガの前座的行為であるアーサナ~プラナヤーマ(体操~呼吸法)による気の巡りの活性は、冬は身体を温めると共に、「夏は冷やす」、というのだ。冬の冷え切った身体を動かして、血行を促したり、ついでに気の繰りが良くなったりして暖かくなるというのはおおよそ実感できるとしても、夏に涼しくなるというのは、やはり目から鱗である。言われてみてたしかにそうかもしれない。逆に言えば、それほどに微妙な効果でもある。発汗作用に代表されるように、身体にはそのほかにもいろんな次元の冷却機能(自律神経等)が備わっていて、外界が暑ければ自らが冷却に向かう、それを促すというのである。
それだけではなかった。「冷却の呼吸法」なる奥義?を初めて知ることになった。確かに、体感できた。ヨガは想像力が実感と実質を導く=数字で測定できない世界だが、この呼吸法において、その想像力いかんでは、キンキンのアイスマンになることもできる。(想像力が結果を伴うというというあたりは建築設計の職能とかぶるかもしれない。)ともかく、キンキンのアイスマンというのは比喩としても、冷房漬けの人は身体の芯が冷えているので、真夏でも厳禁、冬は何人にとっても、禁じ手という。この呼吸法には〇×△プラナヤーマという名称があったが、サンスクリット語に慣れていないせいもあり、記憶できなかった。2つの方法のうち一つは、仕事しすぎてオーバーヒットした頭や、誰かを怒りすぎて収まらない頭上の湯気を冷やすのにも効果があるというから、これは夏に限らず、多くの人に多用できると思った。かつて、ヨガがどうしてインドで生まれたかという理由に、「暑い国で、運動をすると却って身体を損なうので、そのかわりに、ヨガという健康法を編み出した」という見解を耳にしたことがあるが、この因果説が枝葉末節なアイデアであるとしても、結果的には暑い国に適合しているではないか、と言える。身体を冷やすコーヒーが暑い国の原産であることと同じであろうか。
今、メディアではタケノコの勢いで様々な冷却の諸説が取りざたされているが、十把一絡げにいうと、人間はモノへの依存を免れ得ていないことになる。たくさんエネルギーを使うところを少ないエネルギーでと言っているにすぎない。多くは販促と有縁で、その他水浴びせよ、というのであっても外界からの冷熱の享受であるという意味で、身体の外に何かを必要としている。いけないとはいわないが、例えば、エコカー論争の中に、あくまで化石燃料を使うハイブリッドの概念に対して根本的な温室効果対策となる水素燃料車等が対立しているように、より根本的な解決に繋がる発想の姿勢は常に必要だと思われる。どうしたって、モノがなければ冷えないと決め込んでいるこのご時世に、身一つ、ちょっとした所作により涼しくなるという手法は画期的と思えるし、なによりも発見的で驚きと深度がある。
ということで、気の巡りを良くしたこの日の参加者は外界35度の昼下がり、冷房のない畳の上で屍のポーズ(シャバアーサナ)のまま、いびきを掻いて気持ちよくうたた寝をした。(本当は寝てはいけない)これが、最高に快適な夏の昼の過ごし方である、という見解は古くて新しいの類と考えた。

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