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2011. 5. 8

第121(日)木:大工・山下正巳-4(物心集)

山下さんが、大工技術を伝えることの最も重要なところを、おそらく彼自身、明言が出来ていないのではないかと思っています。無言の部分を言語化しようとするとおかしなことになってしまうとも、そしてマス教育では教え難い部分とも、言えるかもしれません。それは単純な話、山下さんの「常に木に頬擦りしている」というところに尽きるのではないでしょうか。山に生えているもの、伐採直後、製材したもの、加工したもの、木っ端、それぞれを愛撫する、撫でる、黙って凝視する。この木は家のどこに使うといいのだろう、どういう向きがいい、時間が経ったらこうなる、など考えが自動的に巡り始める。木を巡って発想される中身は、山下さん個人の思いである一方、私たち社会がある程度共有可能な(木工についての)理論=セオリー、方法=メソッドを少なからず含んでいます。しかし、それらよりも上段にあるものに注目する必要があります。セオリーやメソッドは、時代や場所や気候や職人や、施主が変われば、それに併せて微妙にも劇的にも変わるものであり、世界共通ではありません。「山下さんが、それほどまでに木を愛している」は心象的、抽象的ですが、故に最上段にあり、最終的には、ここだけが信頼に値する。これさえがあれば、時代や場所、気候、人などの状況が変わっていっても、即応することができるはずです。
それほどに最重要なことを、では、「俺の木が好きだというところを、お前も学ばなければならない!」と口頭で言ったところで、言われた弟子は、路頭に迷うはずです。ここを教わりたいという者は、少なからずの間、親方について親方のやっていることをマネするしか方法がありません。そのうちに、1~2割りぐらいの弟子が、少しずつ、親方の「好き具合」に近づくようになっていく。遠のくのではく、近づくようになっていけば、つまり、「木を扱っているだけで無性に面白い」という感覚が自らの内に安住するようになれば、あとは自立すればいいわけです。そしてさらには「木を見ているだけで愉しい」ということになれば、山下さんの分身が誕生した、ということになるわけです。ちなみに知識とか経験値などは、そうなるための道具です。道具ですから、目的ではないわけです。
大工さんは日本で今54万人(2005年)就業していると言われています。その中で、木を愛でて、行動するというその愛情の度合いがもし計れるとしたら、どうなるでしょうか。自ら大工さんとなったのであれば皆、木を扱うのが愉しくてやっているはずだ、と思いたいところですが、はたしてそうでしょうか。間違いなく同業者の中に、好きな度合いの順番があるはずです。もちろん、計る共通の物差しがないから、そのような非情な番付は存在しません。もし貼り出されたら非情だと思うものであるからこそ、その順番は隠されている。その他の順番、例えば、収入や知名度の順位は簡単に並べられると思いますが、仮に下位にであっても(恥ずかしさや悔しさはあったとしても)職能として全否定されたようには思わないでしょう。一方、大工さんが木の好きな度合いの順位を付けられたら、言い訳が効かないというか、大工さんとしての絶対的な値踏みをされたようになってしまわないでしょうか。
本質的な部分こそ、隠されている。物事の好きな度合いに順番を付ける必要があるかどうかはわかりませんが、好き具合があらゆるものの上位にあり、あらゆるものを支配しているかもしれません。少なくとも好き具合は行動に表れる、そして、好きという感情は逆に行動が育てることができる、その可能性が私たち全てに与えられているのではないかと思います。山下さんを見ていると、だれにも頼まれずに作った材木倉庫、技術研究所、木製家具、すべてが、木というものへの愛情の度合いの強さの表現であり、その表現行動は逆に、「好き」を育てていったのかもしれません。そういう主体が、結果的に社会への貢献の質量をもたらす。本当の「好き」は、本来的に数奇である、ということなのでしょうか。

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