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2007. 9. 30

第12(日)不完全な法律

外に吹く秋風が心地よいこの日、我身は事務所に捧げられた。いや、厳密には確認申請の作業に捧げられた。構造偽装事件に端を発する今年6/20の基準法改正に伴い、極度に煩雑化した役所への届け出のためである。言うなれば、意味の極めて薄い膨大な作業が平日に収まりきれずに日曜日になだれ込んできたことになる。日本中の設計士がブログに書かずにはおれないグチネタであるだけに、その典型に陥るのはやめようと思っていたが、もはやそんなことにこだわっている段階ではなくなってきた。
構造偽装という犯罪の発覚を受けて国(国交省)が対処すべきであったのは、犯罪行為的な設計、あるいは不真面目な設計を許さない、ということであったはずだ。だが実際はまじめな設計、もしくは誠実に挑戦する(構造)設計姿勢の持ち主までもが、性悪説的に疑われ、建築を拒否されるという事例が日本中で多発している。「本来、いかがわしい者だけを捕まえるべき法という編み目に全員が引っかかってしまい目づまりを起こしている状態」と表現する友人のブログもあった。今、建築関係の人々に会うと、必ずこれらの話になる。市には60件の確認申請中の物件が止まっているとか、住宅着工件数が20%ダウン、経済的な問題に発展するだろうとか、6/20までの駆け込み着工が引き起こした皮肉な建設ラッシュにより現場の職人が手配出来ずに、完成が延々と遅れているとか。
確認申請の責任を預かる建築設計者の中には、休業するとか、あるいは施主から契約解除されたなどという話もニュースから聞こえてくる。だが、個人的には、理想に向かうためなら一次的な不便は耐えられぬことはない。問題はそこではなく、創造行為としての建築が法律的に否定されているということにある。ものをつくることに「一所」懸命に取り組む人にとっては、これは不便とは比較にならぬ抑鬱状態に似たものである。自らの努力によってもたらされるその人自身の生き甲斐と、同時にもたらされる他者への恵みが、少数の不正行為を前提とするために抑制される。その連鎖を企てているのは、他でもなく法律である。(ベタと言われてもいい、)ものづくりの喜びとか楽しみとか夢といった人の生活になくてはならない、慎ましくも尊厳に値する部分が、法律によってヘシ折られる。代わりに無意味な書類(=検査側の責任回避のためのもの)の作成、問答が設計作業を占拠し、結局、最終的には建て主への負担となっていく。
正しい法律とはなにか?一級建築士が疑わしい存在とし再認されたことに引き続いて、立法の質をも疑わねばならない事態が起こっているようである。

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