若手能楽師、坂口貴信氏の独立披露の舞台に、縁あって参席することができた。「石橋」(しゃっきょう)という神秘的、建築的な演目。日本人にとっての「橋」は、単に河や谷を越えるための物理的な存在ではない。此岸と彼岸を繋ぐ、つまりあの世とこの世が繋がる特別なスポット、チャンネルでもあった。保田輿十郎の「日本の橋」(1936)の世界。本日の物語における石橋(しゃっきょう)は、巾一尺に満たず、とてつもない長さで、足下は滑りやすく落ちれば谷底は見えないほどの深さを持っているという。それを渡ろうとする法師を、現れた童子が、容易に渡れるモノではないと諭す。その後文殊菩薩の使いにより獅子が現れ、乱舞の後に、演目は終了する。舞台セットとして紅白に咲き誇る牡丹の花が添えられるが、肝心の「橋」の情景描写は、ない。
この日のもう一つの演目「羽衣」。あの「天女の羽衣」という寓話を世阿弥が能に書き換えたとされている。美しいであろう、天女やその羽衣、また話の舞台としての白砂青松、富士山の描写はどこにもなく、シテが扇子一本のみで、舞うだけ(仕舞)である。自分が見た能の中では、最大に、動きがない。動きが人間の限界を超えて、スローであるところが、この演目の難しいところであり、見所であるらしい。
それにしても、日本人であるはずなのに、能という文化のようなものへの不可解さ、をぬぐうことが出来ない。内容がわからない、というなら、口語訳のあらすじを読んでおけば済む。知識がないことが問題ではなく、どうしてここまで、抽象的な表現であるのか、我ながらというか、我々日本人の祖先の表現思想に、不思議を感じる。オペラや某の現代演劇なら、おそらく「石橋」なら石橋の表現が舞台セットのうちでなされるだろうし、「羽衣」なら、天女を着飾り、羽衣や富士山などの、重要な背景を伴っての舞台表現となっていくに違いない。私たちの先祖は、そういうビジュアルは、すべて各自の頭脳の中でそれぞれが思い描けばいい、といわんばかりであった。能面を付けては演者は表情を隠し、また面や装束をまとわない仕舞であっても演者は顔から表情を抜き去る。まったく、表現を制限された、表現である。そこから、意味が発生される。そういう種の意味。そういう姿勢が、いつまでたっても不思議なままである。
2011. 3. 27