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2011. 3. 20

第114(日)近隣聖地巡り

先週の日曜日、気になっていた久山の伊野皇大神宮に足を運んだ。なにかと話題に出てくる草葺き屋根の飯所「茅の舎」に行ったとき、何とも言えない辺り一帯のすがすがしさの元がこのお宮にあるのではないかと思いつつ、なかなか鳥居をくぐらずにいた。東北の地震直後という暗雲立ちこもる心情から、日曜日の過ごし方としてとりあえず、神社参りに罰は当たるまいと思っての行脚。
現代人の習慣そのまま、事前にネットで検索したところ、このお宮には九州の伊勢という接頭語が付いている。そして、神功皇后~アマテラスオオミカミなどの神話的伝承や、北条時宗、織田信長、小早川隆景などの歴代武将の信仰を受けたなど、国家的な話がまとわりついている。まずは、手前に流れる綺麗な川は五十鈴川、その架け橋が五十鈴橋と来てそっくりそのまま伊勢の雰囲気が匂い始める。石階段を上り、すっぽりと神域らしい静けさの空間となり、案の定、神明造りのお社が建っている。手前の向拝から参拝して、奥の社殿へ上り、その奥に瑞垣で囲まれた古殿地があった。ここでも伊勢と同様式年遷宮が行われているという。伊勢の写しは日本に数例あるらしいが、日本建築史のガイドマップ「日本建築みどころ辞典」にて、長野の仁科神明宮だけを知っていた。こんなに近いところに、その類があろうとは、この時まで知らなかった。私は正直、パワースポットの類を巡っていて、ブログの皆さんが書かれているほどに、明らかなるパワーを感じる、というほど鋭敏でない。代わりに、何遍でも生きたくなるか、それだけが判断基準となる。聖地の聖性に有名無名は関係ないという話はここに当てはまるかもしれない。

久山を後に次に向かったのは、今度は有名どころ、宗像大社。昨年だったか、世界遺産登録申請の候補地を先送りされた。遺産候補の焦点となった沖津宮~中津宮という神の島々もさることながら、その軸上反対の丘上に高宮という、日本でも珍しい古代斎場がある。久しぶりに足を運んでみたくなった。日本の建築の初源に辿っていくと、仏教建築などの後の輸入品よりもさらに遡り、社殿不要のヒモロギ、イワサカに出逢う。
磯崎新氏の論説により斎庭として知り、建築関係の友人知人が来福の折りには、連れて行くようにしている。。日本の庭の原点とも結びつけられる空白の空間は、ミニマルインスタレーションと呼べなくもないが、そんな語は野暮、なんともいえず、清々しい。伊勢の古殿地もそうだし、さきほど発見した伊野のそれもそうだったが、まったく自然のままでもなく、かといって作り込まれた神殿のような人口空間とも異なる、不思議な魅力の空白である。
それにしても今日は、人が多い。これほどに神社に人が集まっているのは、初詣以外知らなかったが、もしかしたら、地震のことがあって、皆ここにいるのだろうかとも思った。
宗像大社の境内を散策した後は、直ぐ近くの鎮国寺という、空海が唐から戻ってきた時に一年半滞在していたお寺に回った。ここは従って古いお寺であるが、建築が戦後のRC造であったりするので、日本建築史として知ることがなかった。九州巡礼の札所になっているからか、駐車場の広さからして、来訪客が多いところであることに気づいた。なぜかここも、たくさんの人でにごった返していた。

市内へ戻り、最後に名島神社と、名島城趾を訪れる。ここにも表裏含めて、たくさんの伝説のある地である。2009年から騒がれた展望台計画によって、ここが、黒田の福岡城以前に、天守を持った城があったとこを知ると共に、歴史を伝える時の落とし穴のようなものも浮かび上がる事態に遭遇した。当時、秀吉が九州鎮西のために、小早川に命じてこの小高い丘の上に名島城を建てさせる。しかし20年も経たないうちに、黒田の時代になり、城は移り、この丘は城趾となる。一時、九州を配下に見下ろした幻の名島城、これが町の人の町おこしの動力源となった。しかし、この土地の歴史はそれより前からある。秀吉が城を建てさせた以前は、この丘全体は神宮ヶ峰といわれ、神域であった。時代、地勢、それに記録を重ねると、なるほど、山一つを神殿ととらえてきた神道の原点がここにもあったことは、すぐに想像ができる。しかし、そういう土地の素性はなぜか無視され、天守閣の高さに至る展望台の計画が持ち上がる。そして、当たり前の話、反対意見が起こる。展望台の高さを低く変更して、予算が消費される方針が昨年(2010)に可決されたときいた。その後どういう理由か、難航しているとも風の便りで耳に入った。そういえば、この地は、400年まるまる空地であったということはない。戦後に関して言えば、とある会社の社長が住居を構えた。社長宅としてこの上ない立地、古代の要衝地だから、現代に至るも絶景の眺め。しかし、ここでの生活も20年持たなかったという。お墓の跡地であれば、誰も家など建てようとは考えないハズだが、聖域に対して、同様な感覚は働かなかったのだろうか。展望台であれば、いいということか。理屈とか歴史感覚という以前に、単純に感性の問題であるかもしれない。

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