日本の建築の未来を担う学生が選んだ、日本の建築ベスト5なるものに遭遇した。だからどうだという程ではないにせよ、こういうのは、やはり古今東西を問わず、興味深い。
TVだったのでうるおぼえだが、
5位が確か、東京カテドラル(丹下)
4位が確か、代々木オリンピック(丹下)
3位が確か、法隆寺、
2位が確か、桂離宮、
1位だけは、はっきり覚えていて、三仏寺投入堂。
20世紀以降のものとそれよりずいぶん前の古典を同じ土俵で戦わせていいのかどうか、すこし疑問がないでもないが、まあ、それはそれとして、一位に投入堂が君臨していることに、少々驚いた。
東京カテドラルは、カトリック、(あちらでは国教)カテドラル(司教座聖堂)。代々木オリンピック競技場は、国が戦後復興の象徴として世界に示すために建てた建築、法隆寺は飛鳥時代の仏教に基づく国家政治基盤であり、桂は文字通り天皇家の離宮である。これらは多かれ少なかれ、国家的な建築といえるのだが、投入堂だけは根本的な立ち位置が異なる。
崖にへばりついたようなこの建築は、最近ではNHKはもちろん、民放のバラエティー番組などでも(珍景的な意味で)取り上げられるようになり、もはや秘密の宝ではなくなった。懸崖(ケガイ)造りという古典建築の型の一つ、文字通り崖を手懸かりに建つ仏堂の型で、山岳修験道の地であったことを物語りながら、全国の山々に点々と在する。
その山岳修験者というのは、どういう素性かというと、古代産鉄民、つまり、鉄を始めとする鉱物の探索、採鉱、製鉄技術を持った技術集団であったと言われている。彼らは農民のように王権や行政と良くも悪くも緊密な関係を持った民というより、どちらかというと、管理範疇外のアウトサイダー的な存在であった。時代は聖武天皇以降、財源確保というホンネの基、鎮守国家というタテマエでもって、彼らの生活のよりどころであった山は、国家に召し上げられる時が来る。
自らの生活を支えていた土地は王権が管理するものとなり、鉱物採掘権を奪われた産鉄民は、山中を生活の場とするサンガ、マタギ、木地師などへと転身していった。しかし少なからずが、探鉱技術の源である密教的呪術をそのまま活かしながら、修験道者、いわゆる山伏となった。かれらはそれまでの知識と技術により引き続き探鉱~産鉄に従事し、また薬草採取と処方、そしてなによりも修験道という民間信仰が、社会の背後で民たちの拠り所となっていった。
そもそも、空海が正式に国策として密教を招来する以前より、密教的な仏教の欠片=雑密はあったともいわれていて、もしくは仏教伝来以前に遡っても、古代神道としての山の信仰はあったようである。それまで洞窟などの自然地形を修行の砦としていた山の信仰者たちは、平地の仏教が次第に建築を荘厳に構える(例えば平等院鳳凰堂など)につれて、我ら山岳修験の堂宇を山崖に懸けていったのではないかとされている。(このあたりは、本来社殿を持たなかった神道が仏教堂宇の建立に触発されて、成立していった経緯と同じだろう。)懸崖造りの黎明は、やはり密教の正式な招来と山岳修験化の後を追うようにして、平安中期から鎌倉前期に集中している。その地は、修験者の聖地であったと共に、鉄を産していたであろう痕跡(地名・伝承)を伴っているという。つまりそこは、国家によって奪われた山の民たちの先住地であり、懸崖造りの堂宇が辛うじてそのことをカタチで示しているのである。
投入堂という一つの事例に、そのような山の民の歴史背景をどこまで重ね合わせて良いかは解らないが、少なくとも法隆寺や桂離宮のように、国家が擁護した建築でない。仏教ではあったが、国が認めた仏教ではなく、その管理の外にあった「私度僧」達の殿堂であった。投入堂は今でこそ国の宝であるが、当時としては反体制、とまでは言わないにしても、体制におもねることのできなかった民たちが創り出したものである。そういう背景の全てが、投入堂の存在や雰囲気といったものに顕れていると言ってもいいだろう。法隆寺~桂~代々木オリンピック、もしくは広島原爆記念館などとは、異質の何かである。国家の建築は多かれ少なかれ、人間が、人間に向かって建てたモノ、懸崖造りは人間が山という自然に向かって建てたモノ、という差があるのかもしれない。今の学生の多くは、これぞ日本建築の宝と心を寄せる建築の数々の中で、後者を最上位に掲げていることになる。新しい感性はなにかを示唆しているのだろうか。