今日は、我が町の市長選挙。所用の後、投票箱へ。その後、龍馬傳を観る。今日の「選挙=参政」の一時と、幕末当時の政治の核心を一日に観たことになるが、隔絶の差である。かたや、ドラマの上での政治ではあるが、我らがリアルタイムで接する政治とは比較にならないほど、それは、エキサイティングである。ドラマが国政の大きな歴史的転換に寄与するに等しい出来事であって、今日のその現実は、たかが市政の小事ではないかといわれるかもしれないが、しかし、そういうスケールコンシャスでは、どうしても納得できない。液晶越しのドラマはこれほどまでにエキサイティングであるのに、参政権利を行使する生身の私たちは、生きているはずの政治にさめざめとしている。どうせ誰がやっても大差ない、という感覚があまりにも定着してしまった。
「ドラマ」で時々の節目で差し出されていた、懐刀。これはなにを意味していたのだろう。命?もしくは魂?なにか、大事なものごと、部下から上司への讒言の類、もしくは上司から部下への命に関わる通達の折りには、その懐刀が差し出された。とりわけ部下が上司へもの申した折りには、それが上司にタダの戯れ言と判断された暁には、切腹をよぎなくされる、そういう命がけで国を想う一面が映し出されていた。仮に、すべて作り話であってもかまわない。志の高さだけが蒸留されて、そこに表現されていたとしたら、それでもいい。しかし物事を改革するとは、こういうことなのだということだけは事実相違ない、という気がしてくる。
単純に我が身の営み=建築を振り返る。私はなにを改良しようとしているのか?そもそも建築を独りでやっている意味があるか?単に、自由に振る舞っていたいからだけではないか?独我の温床を築くためではないか?そういうことばかりが、検証される。龍馬は亀山社中~海援隊へと営利企業の先駆けを創りながら、国政というより大きな仕事、もしくは深い仕事に関与していった。自営業にとっては、大事な活路である生活の糧としての側面は、すべて志のために注ぎ込まれた。こういう志の類は、かつての武士道であって、暑苦しい、とか、現代的ではないという話にも陥りがちではあるが、そんな安手の批判によって、これら伝記と、今ここに居る私たちとを別物としてしまってはもったいない。今は決して命をかけて、物事を行う風習ではないかもしれない。そうであるべきとも思わない。だが、我が身が、我が家が、我が組織が、満たされることがなんだかんだと言いつつも最終目標となっている事態は、どうだろう。現代社会が、エキサイティングなドラマを築けない、退屈な理由はそこにあるのではないか。
とりとめもない私事を無理にまとめても、全ては自らの棚上げにしかならない。だからこそ、歴史に美談を求めざるおえないということになる。本当に私的なものを乗りこえていることが活かされている仕事というのが、世の中にはびこりにくくなっているという空虚である。この点、政治も建築も同罪である。雄弁であり金集めの得手が政治家になり、新鮮な視覚デザインを創れる者がデザイナーになる。ほんとうはそれは目的ではなく手段にすぎない。多くがその先の目標へたどり着けない、なにか障壁のようなものが私たち現代人に、はだかっている。
2010. 11. 14