昨晩、眠れずに朝5時、仕方がないので起き抜けにとりあえず、テレビのスイッチを押した。久しぶりにA社青汁の仕込み番組に出会った。(なんとなく雰囲気で判明)おおよそいつも、飲食店等を切り盛りしている夫婦二人三脚が出てきて、苦難の末、努力の末に、お陰様で繁盛してます、というシナリオ。(毎回見ているわけではないので、飲食店経営ばかりなのか、わからない)そして結局は、これからも大切な夫にバリバリ働いてもらうために、カミサンがおもむろに、青汁を差し出す。夫は、それを美味しそうにゴクゴク呑んで、挙げ句の果てに、「いろんな青汁を飲んだが、これが一番上手い!」と吐露する。
まあ、そこまでは、毎回同じだとして。その料理人は、大学を卒業して、板前を目指し、東京の日本料理某有名店の門をくぐる。中卒の年下の兄貴弟子のいじめから脱却すべく群を抜く努力の末、そのグループ店を見晴らす総料理長まで上り詰める。どこの料理店かは空かされていなかったが、たとえばなだ万みたいなところなのだろうか。ところが、そこまで上り詰めてのち、疑問にぶちあたる。一生懸命料理をつくっても、そういう格式のある店は、接待や会合といった、食べることとは別の意味を持った客が頻繁に出入りする。料理はしばしば残され、あるいは全く手を付けられず、厨房に帰ってくる。蓋を開けた形跡さえない椀モノもある。そんなときに、テレビでふと、行列をつくる小さなラーメン店を見て、心中のモヤモヤが一瞬晴れる。その後は、水が上から下へ流れるが如く、彼は、その一流料理店の総料理長の役職を全て辞職し、ゼロからラーメン店を立ち上げていく。そして、シナリオどおり、行列のならぶラーメン店へ。
なにしろ、仕込み番組なので、単純に感動すると、感動した方がバカを見るので注意が必要である。もしかしたらその料理は美味しくなくて、残ってしまったのではないか、と勘ぐってしまいたくもなる。しかし、一生懸命つくった料理が手つかずで戻ってくるクダリは、そんな単純な理由で、片付けてしまうわけにはいかない。美味しいけれども食べている状況ではない宴席、食事のタイミングではないが、事の成り行きとして、宴席に着かなくてはならない瞬間は誰でも経験があるはずである。どんな料理人でも料理の質を追求するのは、相手に食べて美味しいと思って貰いたからに他ならない。ところが、そういうふうに、まっすぐに捉えて貰えない場合だってあるということである。名のある飲食店ほど、舌鼓の世界とは違うものを含んでくる。いくら役職があっても、報酬があっても、料理人としては、店の名前だけを食べられては、自分はなにをやっているのかわからなくなるというのは、わからなくもない。
建築デザインも、上記と似たものがあるかもしれない。作者の放ったものが、ずばり、ダイレクトに受け手に響く、といういわば椀の底まで吸い上げて貰えるラーメン屋パターンになるか、もしくは、作者の放ったものが、別の意味、役割をもって社会に有用される、接待割烹屋パターンとなるか。仮に道がどっちかしかないとすると、思いの外悩ましい二差路になる。
2010. 9. 19