10数年以上前に、なにかを作ろうとして材木屋から仕入れた杉板25t×230wを、いよいよ在庫整理のために、用いて工作を思い立った。折しも、我が子供達が義務教育のステップに次々に算入してくることを考え、機能主義的にやはり本棚が良かろうとなった。彼らには家庭の事情があって、各人の個室がない。その見込みも立っていない。そのかわりに、各人専用のユニット本棚=355h×250w×230dを与えてあげよう。正確には、「これで当面勘弁して」という父親からのエクスキューズ。母親が手作りの料理でもって子に愛を施すのと同じように、イクメン脱落の父親が、辛うじて出来るコミュニケーション手段。
その薄汚れた杉板は、セオリー通り全て木表側に反っていて、そのままでは、家具の類いには使えない状態だった。まずは、電機カンナで厚みを減じながら、反った部分を削り落とす。なんとか水平な板へ近づけた後は、円形のオービタルサンダーでその表面を整える。すると、みるみる内に、美しい杢目が浮き出てくる。当たり前のことではあるが、木とは、状況が悪くなれば相応に肌合いも中身も変質=腐朽していくが、表面を削り取ると、再び新しい美しい面が蘇る。わかりきったこと、ただそれだけなのだが、改めて自然木というのは清々しい、と感じ入った。(歳取ったかな)
なぜにこの木理がこれほどに人を魅了するのか。杢目という潜在的な自然美に対して、蛇足かもしれないが、うんちくをつけたい。(≠うんちをくっつけたい)それは、微妙な間隔を持って微妙にひずみながら流れる年輪線=杢目と、其所に穿たれている節、の基本的な構成は同じくしつつも、一枚一枚、いや、只の一枚を見通しても何処として同じ箇所がなく、刻々と変化している、ということがこともなげに出来ている。つまるところここではないか。杉であれば、柔らかい肌合いであるとか、色合いである、という感覚的な魅力は言うまでもないこと。でもこれだけであったなら、差異の概念がないから、見続ける者からすれば、飽きる可能性がある。もう少しだけ、深く、論理的に言うならば、「連続的に変化する、微妙な差異」「(物体ではなく)物質として個々の唯一性」というようなことではどうだろう。自然素材を言葉として捉えるならば、ここへ肉薄する人工的な素材をどのように捉え、扱えばよいか、分別や知恵が生まれるかもしれない。
例えば、集成材は、基本的に自然木で構成されているが、存在目的が物質としての安定性であるから、当然のことながら、木材の本来的な不均質さ=連続的に変化する差異の類いは消さなければならない。人間に例えると整形美、などと例えると物議をかもすか?いずれにしても、エンジニアリングウッド=木質材料と、木材=一般製材の境界は、どうやらそこにありそうだ。あるいは、プリント合板や、杢目シートの類いにおいては、最近のものは、かなりパターンの法則性がわかりにくくなっていて、高度な酷似技術を持っている。遠目には、印刷であるとは気づきにくいから、一見さんには良いのかもしれない。(本物の振りをするという倫理性の問題は別として)一方、それを、ある人が、ある一定時間、ある一定量見続けた結果、変化の底を見てしまう=飽きる、ということになれば、やはり、人間が作ったパターン付けと、自然の造化(第172(日))によるものとの境界がそこにあるということになるだろうか。
人工素材の開発や、もしくは自然素材の工業化のプロセスの中で、作り手(人間)は、受け手(人間)の感受性のある種を不問にすることによって、製品を成り立たせている。素材開発、いや建材開発は、いわば人間が何を何処まで感じることができるのかの人間学の探索そのものだと思う。そこには、捨象されてきたものを捨てきって良いかという疑問まで捨ててよいか、というジレンマが残る。