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2012. 2. 27

センシブルハウス-「テオヤンセンが創る生命体」

「工科大学のエンジニアは、自分の意志によって動くことができるなにかをつくれと言われたらどうするだろうか。命をかけてでもいえるのは、3ヶ月以内に完了させ、また、センサ、カメラ、光電池などで武装したステンレススチールのロボットのような機械をつくり上げるはずだ。略~速くて信頼できる結果をもたらす仕事の仕方だ。しかし、どれも似たりよったりのものになるだろう。」<2011年巡回展パンフ冒頭部分より>
数年前にウェブ上で調べ物をしていたときに、偶々発見したテオヤンセン(Theo Jansen)のストランドビースト
(strand=岸辺に打ち上げられたbeast=動物・・・「砂浜の生命」)。海辺の風を食べて動くプラスチックチューブの生命体の存在に驚いた。空気を食べるとは、プラスチックチューブから作られたオリジナル、というよりお手製のコンプレッサーが、ペットボトルに圧縮空気を詰め込むことを意味している。コンプレッサーを動かすその動力は、海風により羽ばたく羽根から得られている。無数のペットボトルに、破裂寸前になるまで圧力空気を蓄え、それらを吐き出しながら自ら動く。ただ不用心に進むのではない。海にそのまま入水してしまわないように、これもまた独自のセンサ機構により、自ら方向転換する機構を備えている。テオヤンセン自らが語っている行間を表すなら、ロボットといってしまえばそれまでの作品を、あえて動物もしくは生命体と呼ぶのは、その前提として電気とそれにまつわる電子工学の類をいっさい使わないところにある。電源がブラグインされて始めて動くようなものは、生命体とは呼べないはずだ、と言っているようである。それでいて、電気を使わないことが、単なるアナクロニズムに見えないどころか、電気を用いることが大前提となったテクノロジーそのものの退屈感を指し示しているようでもある。いつ吹くともどこに吹くとも知れぬ風を頼りにする姿勢、そうまでして人間の造作物を生命体に近づけようとする意味、このあたりが彼の仕事の最深部ではないだろうか。
住宅は住むための機械である、と言ったことをコルビジェは後に後悔していたようである。その心底の変遷は、テオヤンセンという現代と重ね合わせると、察しやすいような気がする。ストランドビーストはその名のとおり、どこか、現代生活から虐げられた居場所(人里の希薄な砂浜)をその技術のバックボーンとしながら、現代の人と自然の関係について、悲哀と冷視を投げかけている。同時に、自由で無限の可能性を凌駕しているはずの電子技術から解放された別の自由、あるいはすがすがしさを発している。コルビジェが、産業革命以降の思考規範によって家作りをまとめ上げたとするならば、テオヤンセンはその思考規範そのものへのカウンターブローであるかもしれない。もはや、彼のものづくりは、住宅であればそれを機械と考えては作らないだろうし、電子工学での解決になんの面白みも示さないだろう。
些末な私説はこれぐらいにして、是非、世界に公開されている数々の動画をご覧頂きたい。電気仕掛けの掃除機が家の隅々まで隈無く掃除する日常を、もはや何とも驚かない私たちは、意外にも、砂浜の風に羽ばたく物体に、驚きと不思議、そして、自然と共に生きる人間の造作物とはこのことか、と感じることができるはずである。

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