「都市になぜ農地が必要か」進士五十八著1996/実教出版
なぜ必要か、と聞かれるとその理由を求めて、つい読みたくなってしまう。平易な文章でつづられいた中身は、少なくとも数字による必然性をうたったモノではなかった。つまるところは、都市のアメニティー環境として、農地、もしくは農的な暮らしが必要だという。アメニティー(amenity)とは「快適環境」だということを環境庁が示しているらしいが、語源を辿れば、ラテン語のアモエニタス(amoenitas)から派生しており、アモーレ(amare)「愛する」にたどり着くという。真のアメニティーとは、娯楽施設がどのくらいの距離にあるとか、交通の便が良くてとか、快適な気温や湿度環境などといったハードウエア的な環境のみではないことに軸足が置かれる。
「愛する」などというような部分が引き出されると、なかなか、住宅というハードウエアにつなげにくくなってくるかもしれない。しかし、ここでは、農的な暮らしがまさに、語源に近いアメニティーのある環境を作るのだという。食物、もしくはそれ以前の植物を愛するということが生活に根ざす、そういう環境としての農地が都市(生活)には必要だ、というところへたどり着く。くり返すが、やはり著者がいう農地の必要性は、数字で表せないところにある。
「業」ではない農の意味、抜粋
楽農、遊農=農を愉しむ。市民農園など
援農=農家ではない市民が、農業を体験し、応援する。
学農=座学ではなく、経験を通して、自然を知る。
私は、老母の住む家に二世帯住居として2階に住んでいる。1Fには一本松の生えた日本的な庭があるが、我が住まいの2Fには当たり前の話、庭がない。普通の「和風住宅」の2Fであるから、所謂バルコニー+掃き出しの窓がなく、外を感じられるとすれば、1500W×900Hの、お粗末なアルミサッシを半分開けた状況でしかない。なんとなくであるが、庭がない、もしくは外気から遮断されている息苦しさのようなものを感じながらしばらく過ごしていた。そこで、3年前に二階の勝手口に直通する鉄骨階段の腐食にかこつけて、思い切ってバルコニー付きの階段に架け替えた。北庭になってしまうが、それでも外を感じる空間の実現で、我が感覚は喜んだ。その次に行ったのは、植物。プランターを置くしかないが、それでもよかった。無精がたたり、植物を枯れさせてしまうも、それではいけないと、夏の冷房時のドレーン水を、プランターの一部に樋で伝えるよう仕組み、家の者が暑がって冷房を付けると自動的に給水されるという、苦肉の策を講じた。今年(2011)の春、そこにシソとバジルを植えたところ、大変な繁殖力であった。厳密に言うと、バジルを抑えて制空権を得たのはシソであった。昨年は、地上の本物の地面に地上したシソが、却って虫の食料として召し上げられてしまったから、今年のプランター+冷房ドレーン水のシステムは、思いの外画期的であった。
ところが、シソってそんなに普段沢山食べるものではないから、その活用に困った。イタリアのバジルペーストに習って、しそペーストを作る。松の実やオリーブオイル、パルメザンチーズにシソを大量に入れて大理石の擂り鉢で擦る。それをジャガイモなどに敢えて、食べる。どういう訳か(後に理由は判明)シソの香りが消えてしまい、バジルをシソに置き換えるだけでは、だめだということに気付いた。
庭は手入れが面倒だ、一戸建ては防犯が心配、ということで、敢えて地面から遠く高いところ(集合住宅)で生活するスタイル、もしくは、庭を前提としない一戸建てなどが、もしかしたら、時流という風に捉えられているかもしれない。
その一方で、私のように、戸建ての2Fに住んでいても、外を感じられる空間が欲しい、とか、土を感じていたい、とか、ちょっと家で食べる程度の野菜を育てたい、という感情は、この先の人間にとって、変わらぬ欲求として、ありつづけるのではないか。庭が要らない、土が要らない、というのは、一時的な利便性、もしくはその時の一身上の都合であるかもしれない。人は本来、土や風や植物、もしくは動物がいない環境では真に快適だとは感じられぬ本性を持っていて、それら本性がなにかの拍子に露呈するようになっている。私の場合も、シソと汗だくになりながら格闘し、そのわりにはうまくいかなかったけれども、シソと真に向き合っている「感覚」が妙に心地よかったりするのである。
目に見えて解る利益をもたらす家は、世の中が創り出してくれるから、私のような役割はその欠片を拝借すればいいなどと思っている。その代わりに、人間の本性を先回りして受け止められるような家、の類を考え出す位置に居よう。