2024. 8. 18

第211(日)喫茶スイスの喪失

全てのものは、いずれなくなることは、わかっている。わかってはいても、それがなくなると、衝撃を受ける、類のものがある。無視できぬほどの衝撃、心の空隙の埋め合わせとして、一つは、そのかけらを何らかの形で、再利用する、保存するというのがある。人間のオコツもそうだろうか。そして、そのような実物保存の他に、情報として残すという方法がある。

閉店したとある喫茶店の記録。場所は滋賀県彦根市のこと。彦根城の近くで50年ほど営まれた、地元のみならず、県外の常連客にも支えられた有名店が、2022年にその幕を閉じた。きちんと写真に収め、図面に描き落とされ、店主との回想録含む、一冊。

著書は、川井操氏。滋賀県立大学で教鞭を取る建築家である。彼は、集落研究という、作家性とは真逆の、時間軸の長い集団による自然発生的な建築の原理を探るその視線で、一軒の喫茶店を眺めていたのだろうか。昭和の中盤以降に流行ったという喫茶店のスタイルを色濃く留めた建築の、ロードサイドショップ化していく50年のサバイバル。建物が、というよりも美味しいメニューを値段を抑えて作り続けてきた夫婦によって、建物が生き続けた。人間の営みがセットになった建築にこそ、おそらく著者は強い関心、愛着を寄せている。その感性が、出版社を自ら立ち上げ、本を作らせた。著者は、学生時代からこの喫茶店の客として、愛着を積み重ねてきたのだと思うが、この本の出現を、彼の一客としての履歴を一旦横に置いて、受け止めてみたい。

ハンバーグや、オムライス、定食などの、ご飯のおいしさと、そのリーズナブルさが、忘れられない、と常連だった寄稿者全員が口を揃える。その描写がみなそれぞれの表現で繰り返されていて、次第に読んでいる方まで、口内に唾液が分泌されながら味が伝わってくるようなのである。百聞は一見に、の逆説になるが、歳をとると、老獪な仮想現実によって、知らない味であっても、なんとなく想像できそうなのである。一喫茶店の全存在が、こうやって記録として結実することによって、5~600キロ西に居る無縁の一人に、身に覚えのない、けれどもなぜか深い喪失感を伝える。

最近、とある駅前で、約束時間の直前の20分の合間に、昼食をとってしまおうと、何某ギュードンチェーン店に入った。700円弱の出費だったが、正直、胃は食物らしきで満たされたが、心は満たされなかった。はずれない、が入店動機のチェーン店が、結局ははずれてしまう。申し訳ないが、これだったら断食した方がよほど身体によかったと後悔した。こういう店の正反対なのだろう、喫茶スイスは。やはり、個人で頑張っている「飯屋」を、こちらも頑張って探して、そこにお金を落とすべきだと反省した。その人個人が頑張っていて、その気概のようなものが、地域にもなんとなく浸透しているような店、こういうのがなくなったら、この世(その地域)は本当に終わりだ、と切に思った。喫茶スイスの喪失は、それを知っている人たちだけの喪失ではない、と思った。

2024. 7. 21

第210(日)金峯山寺と修行僧3(働く時間について)

かつて、建築設計業は、明らかに長時間の労働スタイルであったし、おそらく今もそうだ。自身は、大学の研究室の個人助手として、朝10:00始業、夜は終電近く(中央線は朝の1時近くまであった)まで、というのが、月~金までだった。このウィークデーは、仕事している時間以外は、ご飯を食べているか風呂に入っているか、(+通勤か)しかしていないイメージだ。かろうじて土曜日は、週休二日制の黎明期に伴い、表向きは休日扱いだった。コン詰まっていない時は、午後に出勤して、夕方18時ぐらいに上がる、という具合であった。でも今日でも土曜祝日は現場が動く業界だから、当時はなおさら、祝日返上は日常的だった。

九十年代を終えてミレニアムを迎えてからは、社会は一気に完全週休二日制が当たり前となり、反対に、夜中までやっているやつは仕事ができないやつのレッテルが貼られるようになっていった。起きている時間=就業時間、というようなコン詰め型の仕事の仕方は、美徳から一転嫌悪されるようなパラダイムシフトである。海外の著名なあの建築家の事務所も20時には明かりが消えている、などという噂話が海を越え山を越え、妙な説得力を持って、我が身を顧みることになっていった。

こうしてこの二十年で、就労時間の感覚、というものが、ガラッと変わった。単純に、昔よりも、働く時間が短くなったということだが、単純に生産量が減ったとは言い難い。手書きとCADの両方で実施図面を引いてきた設計実務者(おそらく50歳以上?)ならわかるはずだが、手書きよりもCADの方が、はるかに図面を描くスピードは早い。手書きは、あとでは変更しようもないから、どの縮尺でどのトリミングで描くか、最初の描き始めの一時間ぐらいは、補助線と向き合う時間を要した。既に描かれたものを変更するのも、CADのスピードに手書きは追いつきようもない。別の見方からすれば、CADは、自らの持っているポテンシャルを引き出そうと、人をも機械のような生産性へと駆り立てる、物言わぬペースメーカーのようである。

手書きの時代は、現場に行く前日や、図面提出の期日の数日前は、複数の人間で、夜を徹して修正作業をした。片道で半日かかるような遠方の現場の前日は、貴重な現場日となるから、作業は盛り沢山で、始発を待つ数時間は研究室の床上でごろ寝になった。RC床にPタイル直張りの硬くて冷たい床を今も背中が覚えている。このような、どうやっても終わらない現場前の図面修正、という「諦めのセレモニー的夜」は、いつのまにか設計現場からは消えた。(と思う)

元興寺 禅室 240624

第206(日)金峯山寺と修行僧1第207(日)その2で、書き忘れていたことがあった。そもそも、お釈迦様は、苦行を否定されたはすなのに、なぜ苦行を求めるのか?という質問に対して、吉野で千日回峰行を達成した塩沼阿闍梨はこう答える。「おそらく、お釈迦様は苦行という行為を全否定されたのではなく、苦行そのものが目的となった苦行を否定されたのだろう」

10年に1人という偉業であるからこそ、千日回峰行の達成には落とし穴があって、心理的な慢心がつきまとう。それは、行者として本末転倒なのだという。懸命な行者は行から(精神的に)離れる必要がある、らしい。行への所定の執念があるから、行に取り組めるのだが、その執念は放り投げなさい、というのである。

こういうところが、難しい。もしかしたら、懸命な図面描きは、図面を描いている時間、あるいは机に座っている時間をカウントすべきでではない、ということになるだろうか。結果的に時間が経過しているのであって、時間の経過を目標にしてはならない、のだ。

通常の私たち凡人にとっては、行者の偉業など話の下敷きにはできない、と考えがちである。しかし、阿闍梨は、ピシャリと釘をさしている。そういう分別知に対して、本の腰巻に「日常生活こそが行である」と刻印してある。百日、千日回峰行、四無行、とステップアップする金峯山寺の苦行ぶりは、私たちには到底なし得ない類のものではあるけれども、私たちも、レベルを変えて、日常は、苦行の類、もしくは苦行の域に通じる行と考えられるのだという。

彼が苦行の道を歩んだ中心的な時期は、20~30代前半のようである。年齢としては私の一歳上で、私の苦い修行時代と同じ頃の出来事だったとわかる。あの頃の生活は懐かしいが、同じようなことを今の50代中盤でできるかというと、物理的に難しいだろう。その人にとっての苦行の類は、やはり20~30歳前半あたりを逃すと難しいのだと思う。「修行」は死ぬまで行えるが、「苦行」は、その時でなければならない。

夜の20時にまだ頑張っているやつはアホだ、みたいな雰囲気や世論は、その人のポテンシャルを奪う風習とも言える。時間制限を設けて、集中力を必然にして、結果のクオリティーを上げる、という見込みは間違いではないと思うが、それは、平均的な仕事人を基準にした、画一的な組織をつくるだけである。(組織論とはそういうもの)

とある建設会社の支社長と話していて、うちは会社が19時に消灯で、若くて頑張り屋の社員が居るのに育ちが悪い、と嘆いていた。当の若手も、もうちょっと働ける時間が欲しい、と嘆願するという。別の組織設計会社の支社長も、やる気のある部下から、夜働いてはだめかと10年ぐらい言われ続けている、という。

20時を過ぎてしまう理由は各人様々だろう。残業時間を競うというようなことは、戒める必要はあるだろうが、努力を惜しまない人間の20時とは、仕分けしなければならないだろう。また、20時に終わるように、仕事の質量を調整する、という器用さも、仕事人としては優秀なのだろうが、それだけだと、クリエイターとしては、なにか足りないような気がする。いずれにしても、働く時間の制限には功罪が等しくあるようだ。

2023. 12. 31

第209(日)あたりまえのこと

二回り目の辰。裏には「2000貞治」

先日のNHK日曜美術館(2023/11/26放送)でたまたま堀尾貞治(1939-2018)さんの回想録が映っていて、ご自宅で日々されていた、「1分打法」と称する即興芸術?を動画として垣間見る新鮮さを得た。「あたりまえのこと」というタイトルでご自身の活動を銘打っておられたが、こちらも「あたりまえのこと」という題そのものが、あたりまえという意味以外、何にも結びつけられないまま、わかっているようで、わからずにいた。一つの場所に、毎朝、絵の具を塗り重ねていく、といった日課のようなものがVTRで収録されていて、ああそういうことの積み重ねのことなのだな、と、今更ながらの合点をする。

堀尾貞治さんにお会いしたのは、1999年完成の宮崎の現代っ子ミュージアム、研究室時代の、藤野忠利さんのお仕事の時である。その時に何らかで頂いたか購入したかの、辰のアートを改めて引っ張り出す。干支の置物は、1月を過ぎると霧散してしまうはずのものなのに、なぜか24年持ち続けていた。明日の一年は辰の年だ。この置物は、干支を問わず常に本棚のどこかにちょこんと座っていたが、明日には、堂々とどこかに飾るといい、という機会を得た。小学生が用いる紙粘土を、たぶん堀尾さんのことだから5秒で束ねて、そして乾いてから、多分、堀尾さんのことだから、10秒ぐらいで龍の顔を書いて出来た作品なのだろう。(たぶん、これらが100個ぐらいあって、それを2時間ぐらいで作っているのだろう、勝手なそうぞう。)しかしそれが鎮座する座布団の方はオーセンティックな感じで、そのギャップが面白くて、24年持ち続けた。ついでながら、彼の80年の記録も改めて開いてみる。勝手な評価をして大変恐縮だが、堀尾さんの作品は、作品を経由して、やはり、堀尾さんの営みそのものに、深い意味があるのではないか、と思いつく。一つのことを、コンスタントにやり続ける。極論毎日の日課にして、一年とか10年とか継続することに力点、支点、軸足があるから、何をするかは、土台の上のさまざまな様相に過ぎない、とでも言っているようである。それを哲学としての言葉ではなく、行動で示され続けた人生だった。

とってもポップな辰の置物は、硬く言うと「継続は力なり」というような事を、明るく華やかに、ちょっといたずらで脅かしながら、語りかけてきているかのようである。

 

 

2023. 12. 24

第208(日)木育の底部

2021/11/19 事務所研修旅行 田篭地区の古民家ステイ「うきはポサーダ」に泊まった翌日、近くの「山の神」なる地点にハイク。

zoomで、「世界史の視点で見る木育・自然体験活動」というレクチャーを聴いた。お金を払うやつで、それはともかく、森林ジャーナリストの田中淳夫さん(「絶望の林業」以降、「虚構の森」「山林王」通読)ということで、あまり悩まず、申し込んだ。事務所のメンバーと、久しぶりビールでも飲みながら、ああだこうだと言いながらのつもりだった。

最初は、明らかに田中さんではない違う方が教育論的な話をされていた。このレクチャーの主催は、改めてみると「木育カレッジ」というものだから、林業的な、ましてや木造に関わる話というより、文字通り木を用いた教育論なのだと、気づいた。いや、最初から内容はそうなのだ。子供が成長する過程で、ちょうど循環呼吸器系が急成長する10~15歳ぐらいの時に、適度に加工性の良い木工を行うことが、人間としての粘り強さを育む、といった内容の教育論の類に他ならず、これは、たとえビールを飲みながらであっても、総出で視聴する建築設計事務所はウチだけだろう、ちょっと場違いだったかな、などとよぎりながら、ビールを飲み続けながら、頑張って聴き続けた。

まもなく、田中さんに話はバトンタッチされ、林業を木育的に見る、人類学的に見る、その近代史、というように纏められていて、楽しくなってきた。想像どおり、森林を楽しむ、という歴史は、やはりヨーロッパの方にある。わかりやすい一例は、ワンダーフォーゲルといった親しみのある名が、森と人間の近代史のワンシーンに位置付けられていた。日本では、森林療法なる言葉が1999年に発せられて以降、森林セラピー、セラピー基地、セラピーロードが、認定商法的に発展して、胡散臭い方向へ向かう一方、デンマーク発の「森のようちえん」に木育活動が移行しているのではないか、などという話も、建築とは直接関係がないが、世の中の構造が垣間見得るものだった。最初はニアミス感が漂っていたものの、レクチャーを聴き終えるころになると、この勉強会の重要な通奏概念がなんとなく見えてきたように思った。

木育がどうして大事かというと、林業、というか、森を大事にしなければならない、と言うまでもないことである。もし、それらを憂うべき状況である、と痛感するなら、今、森を粗雑に扱っている大人にいくら言ったってダメで、なるべく若い人間たちにある種の根本的な感性を育んでもらいたい、となる。(どうも、木育の対象は、より若年に向けられている)そのためには、まずは森と触れ合う機会が必要だが、触れ合うだけではだめで、深い理解が必要だ。(多分、言葉には出なかったが、深い理解とは「愛」とも言い換えられる?)そして多分、森というのは、自然を代表しているのであって、森に限らず、自然そのものへのより深い理解が、さらに必要だ。自然が壊れていく今、そのことを伝えていく努力を怠ってはならない。と聞こえてくるようであった。

これら木育の前提になっているのは、自然保護愛護の類だとも言える。そういう歴史的偉人たちの名もちょっと思い浮かべたりもしつつ、このようにして、常にその時代に生きている人々の活動によって灯火が消えずに受け継がれていく。それにしても、やはりこういう底部に根を張るようなイベントは、(申し訳ないが)かようにも地味である。だからこそ、影ながら応援したい。

木育カレッジ=「木育」に特化したNPOの存在の根底を垣間見る、納得のいく有料zoomレクチャーだった。

2023. 11. 26

第207(日)金峯山寺と修行僧-2

いかに情報の雨あられであっても、SNSその中に、その時のその人にとって、珠玉の賜物的情報の類が、潜んでいる時がある。

塩沼亮潤阿闍梨の大峯千日回峰行に関わる著を、上記広告の類で見つけて、思わずワンクリックした。

千日回峰行といえば、比叡山ではなかったかという先入観もあり、吉野にもあったのだと新鮮に映った。物見遊山で二度訪れた蔵王権現堂が出発点となる、大峯山を往復する48キロの、いわば山岳修験道のメッカ?である。霊山修行の場であることは重々承知していたはずであったが、いざ何を知っているかと問われたらなにも答えられない状況に1600円、これは買いだと思った。

この修行はちょっと、尋常ではない。いかなる理由であっても、途中で中断することになった場合は、腰に伏せていた短刀で、自刃しなければならない、という掟。朝は、夜の11:30起床。現代人が、そこから寝ようかという時に起きて、死出装束(しでしょうぞく)と呼ばれる白衣の死装束に身を包み、行が中断された時に自らの首をくくる死出紐(しでひも)で体を締める、という身支度を経る。夜中から出発して16時間かけて高低差1300mを往復する。千日は、続けて千日ではなく、大峯山の戸開け式5/3~戸閉め式9/23の間の入山を毎年繰り返し、手前に必須の百日回峰行を含めて、最低でも9年の歳月をかけて行うものという。

この行は紛れもなく苦行の類だろう。その苦しい内容は、上記から先の詳細にある。私が代弁するよりも直接、体験された本人の文章を読むべきとは思うが、一つだけ印象に残ったことを。

千日回峰行、が分かりやすくタイトルに掲げられるが、その前に経なければならない「百日回峰行」もあるし、千日の後には、「四無業」(しむぎょう)というのがあった。これは、断食、断水、不眠、不臥。文字通り、生命維持に必要な食事、水、睡眠、を絶ち、体を横にするのもだめ、ということを9日間行う。ドクターストップがかかる非常に危険な行。この行はオプションだから、ここに挑むかどうかは自由ではあるが、しかし行に入るというならば、死を覚悟して行うとのこと。直前には、浄斎の儀(じょうさいのぎ)という生きたまま葬式の形式の儀式を行う。だから、身内が喪服を着て参列するのだそうだ。以下はその時の挨拶(本文引用)

「行者亮潤、今日まで自利(自分のため)の行を続けて参りましたが、本日、四無業に入ることに相成りました。もし神仏が利他(他人のため)の行を必要とせぬと判断されたならば、皆様方とは永遠のお別れになります。ありがとうございました」

この行の5日目の中日には、水を飲むのではなく、うがいをすることが許されていて、含んだ水で口を濯いで、そのみずは、また椀にもどすという行為がなされる。その時、水は喉を通らないが、口の中の粘膜が勝手に水を吸い上げるらしい。チュルチュル、といった音がしたそうである。このうがいのみが行の中日に許され、そこで体が生き返り、満行を迎えることができたというのである。

この本は、果たして自分の体たらくを戒めるに役立つだろうか?自分をなんとか変えていきたいと奮い立たせようという一方、これは、このような超人的な精神の持ち主には、自分はとうていなりえない、という「諦め」との戦いでもある。

到底及ばない、別世界の生き方と捉えるのは簡単だが、本当は、おそらく、どの人の人生も苦行なんだろう。抵抗したり保留にしたり、避けて通ることができる、というのが、普通の生活者には許されている、だけなのかもしれない。行の中身の面白いトピック(そんな軽々しいことではないが)や金言の類含めて、いろいろとこのあたりは、思うところがあるが、これくらいにしておいて本題に戻る。

金峯山寺は、前回書いたように、師匠から見るべき古建築の一つとして、教えていただき、20代そこそこで訳もわからず目に入れて、10年以上経ってから再訪もしたが、大事なものが見れていない感覚のままあった。

その大事なものとは、おそらく、この本に詰まっていたのかもしれない。行者が建ててそのまま生き続けてきた建築ということらしいが、行者の姿を見ることができなかった。その建築がただ単に、物理的に5~600年、あるいは創建から数えるとその地に千数百年存続している、のではなく、その源のようなものがあるからこそ、のはずだが、そこが汲み取れなかった。一観光客の物見遊山で金峯山寺を訪れても、塩沼阿闍梨の壮絶な行の営みは、かすめることすらできない。(ちなみに阿闍梨は私の歳一つ上。私が拝観した時期には、入山されていたよう)その場所で人間がどのように建築と関わっているか、建築を用いているか、の実感。建物からは、その入れ物として、空間を通して、人間の営みのエネルギーを感じ取ることはできても、直接の見聞と同じにはならない。結局、その埋め合わせはこの一冊の書物が伝達してくれたようである。これら文字情報を読み合わせることで初めて、建築の価値の源のようなもの実感するに至った、ということである。

金峯山寺、というと、山上ヶ岳の頂上と、吉野にある蔵王堂のを結ぶ全体のことを指す。山上ヶ岳の大峯山寺の方がどうやら役優婆塞(役小角)の時代からの本来の修行場のようであるが、山下の「蔵王権現堂」の方の名にこの場所の成り立ちが込められている。創建時、役小角が壮絶な修行ののち、普通の人は出会えない金剛蔵王の権現を得た、というストーリーである。法隆寺や唐招提寺、薬師寺は、同じく国が誇り世界が認める素晴らし歴史建築だが、寺院としてのアクティビティーは、一般の私たちには見えてこない。個人的には、食堂+細殿の双堂がとても好きなのだが、そこでお坊さんたちがご飯を食べている状況を見ることはない。

蔵王権現堂は、プラッと行っても、その本題の風景を見ることはできないのかもしれないが、とびっきりの人間の活動が密かに続いている、ということで、別格なのではないかと思う。塩沼阿闍梨のみなず、無数の行者の生きるエネルギーが時を重ね、建築の存在存続の底部がずっしりとあることが、この建築の魅力なのだと思う。彼らの生死をかけた行の積み重ねを通して、この寺の開祖、役小角の壮絶な行はもしかしたらこのようであったと、1300年前のことの想像がしやくすなったりもする。ストーリーは、否応なく蔵王権現堂にまとわりついていて、この建築があるから、人間の生き方の本髄が語り継がれる。人間のストーリーが豊かにまとわりつく建築、こういう建築を作っていきたい、と率直に思った。自分より一つ年上の塩沼阿闍梨の壮絶苦行への誘惑を微妙に交わしつつも、とはいえ、そんな建築をどうやって残りの人生で作るのか、ということも、今の自分には果てしない命題でしかない。