2010. 8. 26 permalink
今年の暮れで2年を迎えるこの家の休日を襲ってしまった。駐車場の土間、コンクリート土間と土のタタキの代替として行ったセメント改良土間がどうしても期待していた性能を発揮しない。本来土間の代替ではない技術を転用しての採用であったのだが。生半可を戒めるように「おしゃれは足下から」の金言?が心に響く。藤森照信氏がいよいよ土の建築を展開しているが、その理屈は「土は地面と目地なしで連続する建築を造ることができる」である。当然、それは自分も心得ているつもりで、この家の光土間、青天井の他は床から壁へとすっぽりと土の空間である。土は植物や青空がよく似合う。つまり人間の工作物以前である自然の風景そのものである。言ってみれば、人間の造り得ない要素に、人間は根本的な反応をしているということになる。しかしそこまではいいが、この地面と壁を縫い目ナシにやっているおかげで、やはり、土間に染みた雨水が根強く壁の立ち上がりを侵す。不謹慎かもしれないが、地面と連続する建築部位の宿命、正直、想定外とはいえない。下地はコンクリートの立ち上がりなので、その都度に補修すれば、構造的な問題には発展しない。
逆に言えば、そういうメンテナンスが発生する。最近は、土を使う左官職人をこういう風に紹介する。「土を塗る職人が普通の左官職人と違うのは、塗る技術というのでも、また土を段取りする技術でもないかもしれません。本当に彼らがすごいのは、その後に度々発生するメンテナンスを(もちろん無償で)きちんと行うところです。」似たような職種としては木製建具屋もそうかもしれない。彼らも必ずメンテナンスに出向かなくてはいけない。土を塗る左官屋は、だからコンクリートスラブを押さえていれば楽だし、木建屋はアルミサッシ屋へ鞍替えすれば楽になる。
それはともかく、屋外に面した建具などの木部部分が、無垢木らしく、歳を経ていた。竣工時には、更地であった庭も感じよく出来ていた。通り土間に施した土のタタキも良い風合いが出ていた。変化する素材は代償を払わなければならない部分がいくばくかあるが、(理屈を添えるとすれば)時間と空間に即して人間と共にあるという感じで、やはり、(理屈抜きで)心地良いと思えた。